江戸東京博物館の「大浮世絵展」に行ってきました。歌麿・写楽・北斎・国芳らの貴重な作品が一堂に会すとあって盛況でした。

なかでも広重の作品はやはり見応えがあります。彩色も美しく、江戸時代の景観も臨場感があり、つい長時間見つめてしまいます。

東海道を歩いて旅をする絵中の人物を見ていると、ふとあることに気づきました。彼らの足の存在感が際立っているのです。どの人物でも足の描写が丁寧で、小さな子どもでさえ指の一本一本丁寧に描かれた立派な足を見せています。

「やっぱり徒歩で長い道中を旅するだけあるなぁ」と変な感心をしていました。このぐらい立派な足をしていなければ、道のりも高低差もある旅程をとても徒歩で踏破できないでしょう。

これらの絵は、現代人の私たちからすれば、体の他の部分に比べて足の主張が強すぎる表現のように思われます。しかし、当時の人々が見れば、このぐらい足が存在感を持っていることをほどよいバランスだと思っていたに違いありません。それほど現代の日本人は足の主張を失っているのかと愕然としました。

「足を地につける」「足が重い」「二の足を踏む」「足を伸ばす」など、たくさんの慣用句や言い回しがあります。これも、昔の人のような足の存在感があって生まれ、使われてきた言葉です。また、幽霊には足がないとも言われています。足の実感がない現代日本人の私たちは、昔の人からしたら、さぞかし幽霊のような頼りないものと思われることでしょう。

古武術に熟練した先生に会うことがあります。稽古では床の上に正座をする時間が長く、私などは脚の痛みやしびれに悲鳴を上げております。そのときに先生が言ったのは次のようなことです。

「その痛みやしびれは足からの主張です。存在を無視されているけれど、確かにここにあるぞという訴えです。足に意識を巡らすいい機会になりますよ。」

確かに現代社会に生きる私たちの多くは足を無視しているようです。椅子に座ってのパソコン仕事では腰から下は意識しませんし、歩いているときでさえも上半身が主役で意識は常に上にあります。現代人が東海道を歩いている様子を写生しても、とても広重の描くような足は描かれないでしょう。

これは子どもたちの勉強にも無関係ではありません。今子どもたちが椅子に座って取り組んでいる勉強は、足の存在をどんどん忘れる方向に進んでいるのかもしれません。ときどき行儀の悪い子どもが足を組んだりぶらぶらさせたりするのは、心が足から離れようとするのを無意識に防ごうとしているのだと思います。

では、「勉強とは足から離れ、頭中心にするものだ」と言いきっても良いものでしょうか? 私はまったく違うと思います。先述の古武術の話でもそうですが、正座を苦にしないひとほど思いもかけないスピードで器用に動き、ハッとさせられます。足に重心を持てる子どもほど、いい状態で集中して取り組めるというのも、長い講師経験から間違いないと確信しています。むしろ、「足の無い」状態の方が集中力を欠き、ただのんべんだらりと時間を過ごしているように見受けられます。

伸栄学習会では、意識的に子どもにノートやテキストを持って来させることがあります。これは、悪い意味での座りっぱなしを防ぐ効果があります。足が生きてくると脚部がポンプの役目を果たし血行も良くなります。血行が良くなれば当然脳も活性化されます。

人間はデジタル、ITと、身体を持たない方向の知能を発展させ、それが「あるべき姿だ」といつの間にか思いこんでしまいます。しかし、人間のホントウ知性は全身を使って表れるものです。

実は、この足を意識させながら勉強に向かわせる方法は、なんとか体系化できないかと試行錯誤しているところです。お詳しい方がいらっしゃいましたらご指導下さい。

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