2005年2月号……『青木拓真先生を悼む』 塾長/青沼 隆

当学習会の講師の青木拓真先生が、去る、1月13日に急逝されました。青木先生は5年半前の1999年7月から、非常勤の講師として当学習会の生徒の皆さんの指導に当たってきていただいておりました。亡くなる5日前にはスタッフ全員と新年会を行い、そのときの元気な姿からは想像もできないような結果となってしまいました。世の中には信じられないようなことが次々に起こることは頭の中では理解していましたが
、彼の死はもっとも考えられない出来事の1つです。お父様からご連絡のお電話をいただいた際に、事情を理解することがしばらくできませんでした。お通夜と告別式に参列させて頂きましたが、未だに実感がわきません。夕刻になると、「あっ、こんにちは」という彼独特のはにかんだような声と姿が聞こえてくるような気がしてなりません。遠くの世界に旅立ってしまったというのが、何か、大きな錯覚をしているような気がしています。

5年前、彼との初対面の日を今でも覚えています。ものすごく礼儀正しく、口数が少なく、真面目を絵に描いたような青年でした。塾に応募してくる学生の多くがいわゆる口八丁手八丁である中、彼の姿は異色でした。採用時のペーパーテストの得点は、確か、満点だったと記憶しています。いわゆる一流大学の学生も、惨憺たる点数を取るケースも決して珍しくない中、この面でも彼は異色でした。

彼はもともと浦安で育ち、塾に近いというのが当学習会と縁を持てた理由の1つでした。しかし、その後、ご家族の引っ越しとともに千葉市に移りました。当学習会は辞めてしまうのかと思っていましたが、その後も当然のように仕事を続けました。帰りの方向が一緒のこともあり、よく、彼を東船橋駅まで車で送っていきました。その間、約30分間、いろいろなことを話しました。大学での研究のこと、修士論文のこと、数学や化学のことなども質問しました。私からは、仕事について、遊びについて他愛のないことも含めてもよく話しました。今になってふり返ってみると、私自身、彼のような若い人と、これだけ長時間にわたり話をした経験がなかったことに気づきました。ひょっとすると、彼にとっても、年長者とこれだけ話をした経験はなかったかもしれません。

彼は修士論文の作成に取りかかっていて、昨年の晩秋からは、ほとんど徹夜状態に近い日々を送っていたようでした。恐らく、それが原因の1つではないかと思います。死の当日、朝まで研究室で実験を行い、帰宅後心臓の発作に見舞われたとのことです。彼の真面目な性格が災いしたのかもしれません。
ご両親さまのお気持ちは察するにあまりがあります。「わたしにはできすぎた子どもでした」というお父様のお言葉が、彼の親不孝の大きさを象徴しているように感じられます。享年26歳。当学習会の子どもたちに残してくれたものを改めてこれから一緒に探したいと考えます。

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